「ビーイング・デジタル―ビットの時代」ニコラス・ネグロポンテ

ビーイング・デジタル – ビットの時代は、1995年に出版されたデジタル時代の預言書というべき本であり、
今読んでみても内容が示唆に富んでいた。
著者のニコラス・ネグロポンテは最近日本人の伊藤穣一氏が所長に就任したことでも
記憶に新しいMIT Media Labの創設者であり初代所長である。
そのネグロポンテ氏が米wired誌に書いてきたデジタル時代はこうなるのかなという
巻末コラムを膨らませたものが 本書だ。
西和彦氏が解説でも指摘しているとおり、その書かれ方からか各文章は読みやすいのだが、なぜか読みにくく、そして今もまとめにくく苦慮している。
横に本をおきつつ、なんとか書いて行こう。

ビットは情報DNAのそれ以上分割できない基本粒子として1と0の2進数ボキャブラリーで構成される。
そして情報をデジタル化するということは、サンプル(標本)を取ることであり、
サンプリングの間隔を短くすればするほど、より連続的なものとして眺めることが可能となると説いている。
この辺りは、デジカメの画素数あたりを想像するととても分かりやすいだろう。
そして、この基本粒子が1と0の2進数ボキャブラリーであるという特徴より、
ビットは転送されコピーされ簡単に混じり合うというアトムの世界では起こりりえない性質を備えている。
本書の読みにくさは、沢山のデジタルライフの具体例が、こうしたビットの基本性質を取り込みながら説明されているからなのだろうし、たぶんそうした形がビットの世界とはどういうものかと理解してもらうには当時は必要だったのだろうと想像している。

本書が古びていないのは、ここに書かれていることが現在進行形で実現しようとしていることにある。
例えば、好きな番組を勝手に録画してくれるテレビ はHDDレコーダーとして、
またレンタルからビデオ・オン・デマンドへの移行はhuluに代表されるように、
この10年をかけて徐々に進行し、この流れが逆行することはないだろう。

そうした実現しようとしている事の中でも、appleが見せてくれようとしているビジョンに近いことが多く盛り込まれており、とても感心した。
例えば商品はどんなものでもPCの外皮をはぎ取ったものか、PCに化粧を施したものになるという部分、
それゆえ器具自身が優れたインストラクターとなりマニュアルは時代遅れである、というのはまさにiPhoneやiPadのことだ。
特にiPad、その箱を空けたときに分厚いマニュアルはなく、ペラペラの1 枚の紙が説明書の全てである。
iOS5にて話題となったsiri、これも理想状態は日本の箱根でネグロポンテ氏が会った鹿内氏の秘書– 鹿内氏の「ああ」とか「おお−」を美術作品へまで置き換えて翻訳してくれる–に近いインテリジェンスなエージェントなのだと思えてしまう。

アトムとビットについては以前のエントリーでも紹介した「フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略」とも関連が深い。
この2冊は時代は違えど、同じ価値観に基づいて書かれている。

印象深いのは最後のまとめの部分で、著者のネグロポンテ氏が自身の事を楽観主義者だといい、その源泉がデジタル化は人に力を与えることだと信じているという部分にあった。
アメリカの西海岸ベンチャーも楽観主義であり、それを支えるような仕組みができていると聞くことがある。その文化はこのネグロポンテ氏などがもっている信条からなのかもしれないなどと思いながら本を閉じた。